子供時代の読書

金曜の帰り間際にPCがブルースクリーンになって、切りも良かったのでもういいやと退社して、NANOの修理に渋谷のAPPLE STOREに行った、で、そっちの方に気を取られて忘れて、月曜に出社したら・・・
PC、起動しない・・・
真っ暗で、一瞬ちかっとランプ付くけど、だめ。
1時間ほど格闘し、諦めて、家に帰って別のPCを取ってきたんですが、
仕事のデータはバックアップしたかったので、今日はオフィスに戻って、ヘルプデスクでそれ対応だわ・・と思って、出す前に壊れたPCちょっとさわったら・・・治ってる。
よくわからん・・・
nanoもそうだったんだけど、再現性のない故障って、困るんだよなあ。あーあ。
まあ、折角雨の日にPC2台持ってきたんだから、ヘルプデスクには行ってみるけど。

さて、今日のタイトル、読書。
私は子供時代は掛け値なしの読書好きでした。校内読書コンクールでは常にトップ争い(でもこれって余り意味ないよな)、読書感想文は高校生までいつも代表(なのにこのブログの文はどうなの?とか思われそう)、会社に入っても、まだ延々読み続けてたので、先輩にはいまだに読書家といわれる。
しかし、正直、最近は昔ほど読んでないと思う。そして、読める本が減ってきた。嗜好が狭まったというのか。割と周囲に本読む人は多いので、いい本ない?とかって借りたり紹介してもらったり、するんだけど、読めないのってほんとに読み進めない。一度に何冊も並行で読むタイプなんだけど、先に着手して全然進ます、という本が何冊か・・・

ところで、近年知ったことばで「読み聞かせ」というのがある。初めて聞いて以来、いまいち好きではなかったんだけど、なぜだろうと思っていた。
多分ですが、「聞かせ」ってことばが強制ぽくきこえ(いいきかせる、みたいな)るのと、教育の一環(子供を本好きに育てようという)で推し進められるのが多いからではないか。強制と教育ネタ、純粋な本が好き・面白いというのからかけ離れて聞こえる。読書の楽しみが貶められ、なにかのための単なる手段にされちゃった気分。そんなところが、いやな感じに聞こえるのではないか。本当は違うのかもしれないけど、私の受ける印象として。

うちは読み聞かせはない家でした。本自体、あまり買ってもらってなかったけど、親戚の家や友達のうち(蔵書の豊富な家がやたらあった)、地域図書館、学校図書館をすごく活用していた。先生にもよく本を貰ったし。(そんな貧乏だったわけではないです、なぜ本買ってもらってなかったのか不明)
今に至って、昔そうでもなかった弟も含め、家族全員やたら本を読む家になっていて、もう私は家の中での読書量は下位になってるっぽい。妹は司書だし。よくわかんないものよね。

で、子供時代に読んでた本で、最近よく思い出すのが「にせカストロ」です。
古田足日の「宿題引き受け株式会社」の登場人物、主役ではありません。(この本は学校図書館で借りたけど、後年、文庫になってたので買った。実家にあるはず)
にせカストロは、きっぱりした男で、カストロのことは当時の私はさっぱりわかんなかったのだけど、にせカストロの言うのを聞いてると、即断即決の男気のあるカッコイイ理想の政治家でした。「カストロなら全校にすぐに卓球台を配備するぞ」とかって。もごもごせずに解決策を実行に移す男。
後年、歴史やってカストロの知識は増えたけど、最初の印象のせいでどうも評価が甘いかもしれない。
日本の今の政治家は、はあ・・・と思いつつ、でももうわたしもすっかりオトナになりましたよ・・・
この本では、他にも、「バランスシート」の考えかたを今でも活用させてもらってます。(主人公の一人である優等生の女の子がお父さんに教えてもらったもの)

懐かしモードに浸りながら、終わる。